グレイトフルデイズ・海外インターン生の金田です。
現在、ベトナムのホーチミン市などの都市はめまぐるしくを発展し、日本企業もたくさん進出しています。
私の住んでいるホーチミンは1区を中心にいろいろな店が並び、観光客もよく訪れています。
町は大量のバイクが行き交い若者が多く活気にあふれています。
そんな成長著しいベトナムではありますが、、日本人の方にとってベトナムと聞いて、まず思い浮かべることは
ベトナム戦争
だという方も多いと思います。
ベトナム戦争は1960年から1975年まで続いたベトナムの南北統一をめぐった戦争で、北ベトナムにソ連、中国、南ベトナムにアメリカが軍事介入しました。
アメリカ軍がこの戦争で用いたのが枯葉剤です。アメリカが1961年~1971年まで撒き続けた枯葉剤の影響でたくさんのベトナム人、そしてアメリカ人の帰還兵までもが後遺症に苦しみました。
その中でも日本人にとってもっとも有名なのが「ベトちゃんドクちゃん」ではないでしょうか?
ベトちゃんドクちゃんは枯葉剤の影響で上半身が二つ、下半身が一つという結合性双生児として生まれました。その後、分離手術をされ、兄のベトさんは2007年に亡くなられたものの、弟のドクさんは現在結婚され、双子のお子さんもいらっしゃいます。
私もはじめてベトナムについて知ったのはベトちゃんドクちゃんです。
小学生のころ、学校の授業でベトちゃんドクちゃんについて知り、衝撃を受けたのを覚ええています。戦争を直接知らない子供にまで後遺症の影響があることを目に見える形で考えることが出来たので、戦争の怖さや悲惨さを実感したからです。
今回はそのベトちゃんドクちゃんの愛称で有名なドクさんにインタビューさせて頂きました。
手術前のベトちゃんドクちゃんの頃
「自分が何歳ぐらいのときに結合性双生児で、他の人とは違うことを認識されましたか?」
「はじめから知っていましたよ。認識したのはだいたい6歳ぐらいです。」
「とにかく、とても大変だと思いました。くっついているので生活が難しかったです。」
「幼いころはどこに住んでいましたか? 家ですか?それとも病院ですか?」
「病院から出たのは2007年です。 結婚を機に現在の家に引越しました。」
「日本でベトちゃん、ドクちゃんはとても有名なのですが、分離手術では日本人医師が手伝ったんですよね?」
「分離手術をベトナムでするときに日本人医師がベトナムに来て助けてくれました。」
「その当時、世界には日本以外にも医療技術の進んでいる国があったと思うんですが、その中でもなぜ日本の医師が手伝ったのかご存知ですか?」
「分離手術のときにベトナムの医師は世界の医師に呼びかけました。そこで手伝ってくれたのが日本だけだったからです。」
では、当時、枯葉剤の影響を受けた子供はたくさんいたと思うのですが、ベトさんドクさんのように結合性双生児の方はいらっしゃいましたか?」
「いいえ、いません。私たちはベトナムで最初の結合性双生児なんです。」
「やっぱり、ベトナムの中でもお二人はとてもめずらしかったんですね。
現在、枯葉剤の後遺症に苦しんでいる方々はどれくらいいますか?」
「現在、ベトナムには400万人以上の枯葉剤の後遺症で苦しんでいる方がいます。」
現在でも枯葉剤の影響を受けて生まれてくる子供もいるんでしょうか?」
「はい。います。けれども少しだけです。全体の1パーセント程です。」
「ベトさんドクさんの分離手術の費用は誰が払われたんですか?」
「自立した生活を手に入れることができたので、とても心地よかったです。」
現在のドクさん
「現在、ドクさんはホーチミン市のツーズー病院で働いておられると聞きました。そこでは、どのようなお仕事をされていますか?」
「国際コミュニケーション事務所で秘書をしています。病院のほかにもホーチミンにある日本の旅行会社でも働いています。
そのほかには枯葉剤被害などについての講演会をホーチミンのいろいろなところで毎日のようにしています。」
「ドクさんは仕事のほかにも‘美しい世界のために’というボランティア団体で活動されていますよね?」
「困難な状況にいる方や枯葉剤の影響で苦しんでいる人たちを助けるために日本の親しい友達と一緒に設立しました。現在ではたくさんの日本人の友達が協力してくれています。」
「障害を持つ子供たちのいる家族や貧しい人など、困難な状況にいる多くの人を助けたり、ベトナムのさまざまな場所で行われるボランティア活動に参加しています。また、メコンデルタでは優秀なのに、貧しくて学校に通うのが難しい学生へ奨学金を届けたりしています。」
「この、ボランティア団体では“いつも僕の中に”という歌がありますよね?」
「いい曲でしょう?友達の日本人の先生が作ってくれました。日本語版、ベトナム語版があるので、是非聞いてみてください。」
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日本について
「38回です。今年の8月に東京にまた行くので39回になります。」
「そんなにたくさん日本に来られていたんですね!知らなかったです。」
「一番長いのは1990年に神戸で1年6ヶ月暮らしました。病院で治療するためです。」
「日本は景色もきれいで、日本の文化はとても興味深いです。そして何よりも日本人の人を思いやる心が素敵だと思います。日本で生活していて、周りの多くの人が自分を気遣ってくれたりする中でそう感じました。」
日本で一番好きな場所はどこですか?」
「私は大阪出身なんです。どうして大阪が一番なんでしょうか?」
「大阪はホーチミン市と似ているように感じました。楽しくて、住みやすかったです。そして、大阪には日本人の友達もいるからです。」
「ドクさんには双子のお子さんがいらっしゃいますよね?お子さんにベトナム語で富士山のPhú Sĩ、桜という意味のAnh Đào と名づけられたと伺いましたが、それはなぜですか?」
「日本に関心があり、感謝しているからです。日本からのベトナムへの関心があったように、日本とベトナムの友好を継続するためにたくさんの人の関心を集められればと思っています。」
今後について
「私は今は仕事もあり、十分満足しています。しいてあげるなら、自営業をしてみたいです。」
「あなたは誰ですか?どんな人ですか?あなたの社会での地位はどうでしょうか?枯葉剤被害者をはじめとする困難な環境にいる人たちに関心を寄せ、手助けするための少しの時間や労力をどうか忘れないでください。」
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ドクさんは現在、松葉杖を使って生活されています。お会いしたときに驚いたのはその松葉杖での歩くスピードの速さです。何年も松葉杖を使ってこのベトナムで生活されているので当たり前ですがとても慣れておられ、階段も軽々と上っていかれました。松葉杖は一歩の歩幅が大きいので、私が普通に歩いていてはおいていかれそうなるほど想像以上に早かったです。
ちなみに、普段いろいろな場所への移動手段はバイクを使っておられます。やはりベトナムの方はみなさんバイクですね!
ベトナムでは日本よりも戦争が終わってからまだ日が浅いので、道端などで戦争や枯葉剤の影響でかな?と思われる障害を持っておられる方々を日本と比べるとよく見かけます。一見、経済が発展してきているベトナムですが、戦争が終わっても苦しんでる方々が今もまだたくさんいて、ドクさんをはじめとするボランティア団体の支援が不可欠だなと感じました。
ドクさん、急なお願いにもかかわらず、快くインタビューをお受け頂き本当にありがとうございました。